昭和44年10月17日   朝の御理解
 【入力者: 末永 満】
     御理解第99節

 これは、無学で人が助けらるということとお取次ぎをさせてもらうというただするということは分かりますが。無学で人が助けれんということはないということ。無学で祈り自身助からんということはないということになるわけです。例えば、お取次ぎを願う、信心させて頂く者と、例えば、学問がなからなければと、頭が良うなからなければ、おかげが受けられんということじゃないということがね。頭が悪かっても、人よりも(?)理解力がなくても、例えば御理解何かを頂いておりまして、非常に分かり、分りよるあの人があります。非常にこれ理解力がある人があります。例えと、何回頂いても、頂いても分からない人がある。毎日(?)何が頂きよりなさるかというごたる人もあるけれども、やはり、おかげは受けておる人があるですね。ですから、まぁ、そういうふうに頂きましたですね。
 学問があっても真がなからなければ人が助からんというところの(?)。学問はあっても人が助けられん、学問があるからというて人が助けれんじゃない。ということは、えー、学問はのうても助かることができるということだ思うですね。学者が身を食うということがある。学問があっても難儀しておる。学者が身を食うと、これなんかはここでしょう、真がなければとこう仰るその、真というものが(かげる?)からだと思いますね。例えば、学問そうですね、お医者さんなんかやっぱり、学者ですね。学を修めた学者です。そういうその、例えば、自分が学問で修めただけものが本当だと思い込むんですね、学者は。少し勉強すると、ね、本当にいうたらこの学問というのは、限りなく本当から本当を追求していくような学問ですよね。
 
 特にその(?)(?)ということによってその、まぁ、極めていこうというならもう実際本当ということは、わか、ありえないのです、ね。その証拠には学説というものが変わってくるでしょう。それは、その学問によって、いわゆる、本当のことが、いわば、発見されたり、いわゆる、本当のことが分かるからなんです。ですから、私はここに(おじさん?)が何人も参ってみえますから、(おじさん達?)にです、ね。だからあなた方はね、医学を信じたらいけないって私。医学の信ずることは迷信することなんだと。まだ本当でもない、いわば、ことを信ずるのだから迷信じゃないかと、ね。
 例えば、えー、私共が知っておる何十年か前ぐらいまでの、あの(盲腸手術)ねいたしますと、一週間なら一週間動いちゃならん。それがその当時の、いわば、その医学で極められた本当のことであった。例えば、現在は手術をしてさしたら、もうすぐ動かせる。すぐ動いてもいいという、ね。というように例えば、そのようなことだけもそうです。それはもちろん、一生懸命その医学というものに極められていきよりますから、当然なことなんですけれども、ならこれは本当だということじゃないって。
 
 ですから、いわゆる、その学者が身を食うということはね、学問によって得たその知恵とか知識というものをですね、それは本当だと思い込むんですね。だから、本当のことがないから、本当のおかげになってこない、いや、学者が身を食うという結果になるのです、ね。けれどもなら、現在医者が言ってることは、嘘かというと、決してなら嘘という意味じゃない、ね。そこまでは、だからその本当なんですけれども、これは本当の本当の本当じゃない。だから、本当の本当、又、追求していくんだと、ね。
 
 学問によって、もっと本当なことがその究明されていくというのが、私は医学だと。これは医学に限らず、科学においてもそう。一切の学問がそうなんです、ね。だから、本当な、まだまだ私共の分からない世界というものがどのぐらいあるか分からないのですが、ならこれ信心においてもやっぱしかなことがいえます。
 
 信心は、いわゆる、この真を追求していくことだといわれています。真がなければ人は助からん。真がなければ自分も助かることができないということもいえるわけですけど。その真を追求していく、ところがこの信心でいう真の追求と、真実を追求していくという言葉ですね。いわゆる、本当なこと、より本当なことを追求していくということです。だから、信心過程というか、段階においてですね、やはり、まぁ、例えていうならば、ここに私、それから総代さん、御信者さんとこう、まぁ、三段に分けますかね。
 
 総代幹部というてもいいですよね。総代幹部から必ずしも信心ができておるというわけじゃないですけれども、なら私ができておるというわけでもないですけれども、まぁ、できておると過程しますとね。私がいう真実と総代幹部がいう真実は違うのです。なら又、信者さんの真実はまた違うのです、ね。違ってもです、それを真実だと思い込んで、信心するところにですね、おかげが受けらるのです。
 
 それで、その真実で今度おかげが受けられなくなった。これが本当だと思っておることによって、おかげが受けよったけど、この頃は受けられなくなったとするならです、もうぼちぼち神様より本当を求めたもうておられるということがいえますね。もう信心の始めの頃はよーう、おかげ頂きよったけれど、この頃はずっともおかげを頂かんごつなったとよくいいますよ皆、ね。けれども、入信当初の時にはそれ、本当なこと少し心が向いただけです、神様がおかげを下さってあるです。
 
 はは、おかげのこっちはこればいなと、まぁ、だから思う、思い込むわけですよね。段々おかげを頂いてです、ね、これは本当だとこう思い込むわけなんです。ところ、それを思い込んでなら信心を続けておりますとですね、おかげが受けられなくなってくる時が必ずくるです、ね。
 その時には、神様がね、いわゆる、『這えば立て立てばあゆめの親ごころ』であって、ね、もうもっとより本当なことを分かれというて下さっておる時と悟らしてもろうて、より本当なところへ私は信心を進めていかなければいけません、ね。なら普通の(ひら?)の信者さんから、(かんぶんでおのらせて)頂こうというぐらいな意欲をもたにゃいけん、ね。(はんぶん?)ならせて頂いたら、ほんとに自分の周辺周囲にです、自分の信心によって助かる人達ができるぐらいな信心。人が助けられるぐらいな力は頂きたいというふうにですね、自分だけ助かったらいいといったような思い方から段々周囲が助かってくることを願わせてもらうような信心、ね、成長していかなければならんのです。
 
 そこで私は思いますのですけれども、その真ということがですね、ならそのこれは、いわゆる、学問、医学の上において同じことがいえるが、なら学問の上には、信心の上においてもだから、私がならこれを本当だと、今、言いよるけれどもですよ、ね。一年後にはそれはまた、嘘になってくるんです、ね。私はその意味はよう分かりませんけれども、親鸞上人様が、九九ですかね、九十何かに亡くなっておられます、その晩年にいうておられることにですね、『自分にいうてきたことは、みんな空事』というておられます、ね。
 
 そして、『この世に真あることなし』とまでいうておられます。人間でいう真というのはね、もう限りがないのだと、ね。これが真だ思うて、そこに追求していって、はー、これを得た、これが分かったと、喜んでおるのもつかんなら、それは本当でないことが分かってくる。そして、又、次ぎの本当なこと、真実を求めて。だから、信心とは真実から真実を求め、いわゆる、真実一路でいくのが信心だということになる。そこで私共はですね、そんなら難しいけれども、そんなら少しで本当なことであればですね、それがおかげになっていくのが信心。
 
 かというてなら、それでいいのじゃない。限りなく進めていく。成る程九十いくつになって仏道一筋に修行された。世間から生き仏様のようにいわれなさった親鸞様がです、ね、自分のいうてきたことがみんな、しら、空事だと、空事だというておられる。この世に真あることなしと、素晴らしいと思いますね。そのように厳しく、真から真を追求していかれたということがわかりますね。だからその、真を私はその追求していくその実証というものですね。
 
 それが私はおかげだと思うんです。私共の青年時代には、このようなおかげを、真を、又、当時にじ考えた真をもっておかげを受けてきたが、壮年時代にならせて頂いたら、もう青年時代の真では助からなくなった。より真を追求していったら、壮年時代にはこのようにおかげを又、大きくしていくことができた、ね。段々年をとるに従って、その真を追求していったら、このようにまたおかげを頂いた。そこで御理解100節を読んでご覧なさいましょう。『めでためでたの若松様よ。枝も栄える葉も茂るというではないか。金光大神は子孫繁盛家繁盛の道を教えるのじゃ』と、仰る、ね。 段々段々繁盛していく道を教えるのじゃ。ならその道とはどういう道かというと、今私が申しました、真実一路の道なのだと、ね。ですからもうたえず信心は動いておるのです。昨日の真実はもう今日の空事である。明日へ向かって、真実が求められていくというそういう生き方、ね。
 
 だからね、これは本当だとこう思い込んでおる人がです、それによっておかげを受けて、今度はおかげを受けられなくなったらです、ね、次ぎの真実を追求していかなければならんということね。昔の人が言うておりますね、・・・『勤めても、又、勤めても勤めても勤め勤め足りぬのが真なりけり』、と言うております。今日私が言うて下さりゃですね。どれだけ限りなく勤めていっても勤めていっても、これでよいということはないというのである、ね。
 
 勤め足りぬのが真だと。だから、その時、その、じ、時点においてですねいわれる。その時点においてです、真ということがいえます。しかもその真には、必ずおかげが伴います。その時点において、もしおかげが伴わないものをまだ真だと信じておるとするならば、それは思い上がりであります。間違いです。だから、勤め足りぬが、であるから、これ勤め。もう一段と、これはこれはまだ信心が足りんからじゃというてとこういうておられますように、これはまだ信心が足りんからじゃというて、もう一段信心を進めていけ。そこからおかげが受けられると仰る。これほど信心するのにいうたら、もう信心だ止まっておるということはね、これほど、ここまで真というものは現わしてきたけれど、おかげを受けてきたけど、ここんところの至って、おかげが受けられなくなってきた。もうこれではついいっぱいだと、いうようなことをいわずに、これではまだ信心が足りんという生き方ですね。それが信心なんです。そして、次ぎの新しい信心を真を、いうならば、しん、真実(たい?)。真理というてもいいでしょう。
 
 だから真理。真実の追求ということは、真理の追追求ということになります。それが真理でありますためにです、真の理でありますためにです、理に合うおかげが伴うのは当然なんです、ね。理に合うたおかげが伴うてくるです、ね。それを限りなく受けていくおかげというふうに申します。頼むとか願うとか意味じゃなくて、もう理に合うておるからおかげになっていくのです。というてそれは、決してそこで(?)状態ではあってはならない、又、次ぎの真理を追求していくのである。そいうことが今日は、同時この学者が身を食うということも皆さん分かったですね。学者がなれみ身を食う、ね。というて、なら学者はおかげが受けられんということじゃ決して加えないのですよ、ね。
 
 そういう例えば、私共のような無学の者ですけれども、なら学問のある人達がです、ね、学問に基づいてよりより、もっともっと、なら追求していかれる姿勢、態度というものにまだおかげが受けられるけれども、自分の少しばかり勉強した学問、これが本当だと思い込むことが、身を食う元になるのです。だから、信心はいえるんです。あるけんどころを分からしてもろうて、これが本当だと思い込んでしもうたら、必ずその本当が本当でないようですから、それが身を食うです。おかげが受けられなくなっていくです、ね。だから学者じゃけんおかげ受けられんという意味じゃないです。学者はただ勉強しておる、学問を身につける。その学問で得たところの応えをです、それをどこまでも本当のもんだとこう思い込むところに間違いがあります、ね。
 
 その一番、私はそのかん、感じられるのが医学、それから科学だと私の、まぁ、頭のない私がそれふうに思うのです、ね。科学の最近の目覚まし、進歩。医学の進歩、それこそ目をみはるばかりです。けれども、限りなくそれは続けられていくものです。いわゆる、本当から本当を、を求めていくことに違いありません、ね。ですから、ただその時点のところにおいてですね、もうこれは決定版だと、又は、これが最後だいっていたということはない。これが本当だということはない。
 
 そこでなら、医学を信じておる現代人は皆迷信しておるということになるんです、ね。いかに信心しておる者が迷信じゃ、迷信者ようにいうけれども、決してそうじゃない。むしろ信心させて頂いておる者が正信、正しいことを信じておるです。ね、例えば私の糖尿病何かでもそうです。医者にいわせれば、もうそれこそ、いうならば、重態。絶対甘いものは(?)、お酒は食べちゃならん、ご飯を食べちゃならん、何にも(ちょうりょう?)のものを食べならん。私ね、私はそれは、けれども私は頂きたいものを頂いておる。医者からいうたらむちゃだと言うでしょう。けれども、私その糖尿病というものを医者が作り出した糖尿病と思ってないですもん。もうこれは神様のね、ご都合という病気なんです。神様のご都合なんです。糖尿病という名のご都合なんです。だから糖尿病というよりもその、糖尿病という名の神様のご都合ということの方が本当なんです。だからそこんところが分れたら、それこそ糖尿病のものが酒を飲んでも、甘いものを食べても、いっこうさわらんということになるのです、ね。
 
 素晴らしいでしょうが、ね、それこそ世間では逆両方といったようなことをいいますね。だから逆両方がかえって真実に近い場合がありますよね。だからそこんところをむちゃわしてなりません、ね。今日のそこがそうと信じれれる、神様のご都合と信じれるからならその神様のご都合はどこにあるかあの辺にあるかということを私は追求していく以外にない。そして、私が現在頂いておる結論ではです、ほんとにこの糖尿病のおかげでこのことがこういうふうにおかげになった、このこともこういうことになって(?)のことが、段々分かってきた。もし私が糖尿病じゃなかったら、現在の私はないかも分からん。糖尿病のおかげで現在の合楽がこのような形であるということがいえる。どういうところまで私は考えたけれども、それはまだ限りなく追求されていくことでありましょう。
 
 この方は無学でもみんなおかげを受けておる。この方は無学でも、ということはこの方金光大神だけのことじゃありません、ね。私共、例えば、学問のない無学な者であってもおかげの頂けれる道なんです。それは真さりゃいいばということです。ですから私共が、真を追求していく、ね、み教えを頂かせてもろうて、はー、自分の思い方が真をかいでおったと分からせて頂いたら、ね、そっこくそこから真を、つい、ね、真の人になっていかにゃいけません。しかもそれは限りなく追求されるものである。ここでだから言われるのはね、私は真ですとこういうてもです、その真には必ず陰のようにおがげが伴うものだということです、ね。ですから、もし陰が、おかげが伴うてこなくなってきたらです、もう自分の思うておる真はあやしくなってきたんですから。
 
 次の真を追求していく、私は信心が必要であることが分かります。信心はだからその真ととね。真心の、まぁ、追求だといわれるわけが分かりますね。私共はですね、その学が身を食うと、学者はね、少し分かるの学問がかえって、わざわいをして、それでかえって難儀なことになっていく人があるということだ。なら信心あっても同じことがえいると思うね。これが信心だ、これが真だとね、思い込んでそこから一歩も動こうとしないならば、その真は本当じゃないですから、かえって事件をがえしますでしょう。
 
 自分を勿論、助けれることも救うこともできないでしょう。もちろん自分の周辺にそのそういう助かりをうおうていくようなことももちろんできません。無学で人が助けられんということはない。学問があっても真がなければ人が助からん。学者が身を食うということが、学問があっても難儀をしておる者がある、ね。
 
 信心があっても、やはり、難儀をしておる者がある。この方は無学でもみんなおかげを受けておる、ね。ある信心、そこんところへ私共が信心という、まご、真心だですね。その真心が信心ができる時に、そこにあなたの助かりがある、ね。いわゆる、心が助かる、ね。そこから助かる糸口が段々できてきて、結局は百節のですね、めでためでたの若松様よ、枝も栄える葉も茂るというほどしの、例えば、道を金光大神が教えて下さるのですから、その道をいよいよ追求していくことによって、親の代より子の代、子代より孫の代と、家繁盛子孫繁盛の道を極めていくことができるということになるのですよね。
 
 どうぞ一つ、現在皆さんが頂いておられる真、ね。あー、有り難い。真で人に接する。真でことを運ぶ。これだけでも、たいへん有り難いことです。ところが信心というのは、その真をもって神様へ向かうということが信心なのです、ね。真をもって、信心がなくても、真の熱い人があります、ね。だからそれを、人に又は、自分のしておる仕事に真を打ち込んでいく人があります。これは人徳がついてまいります、ね。あの人は実意な人だ、真心の熱い人だと。あの人は嘘のない人だということになってまいりますから必ず仕事の、せい、順調になりましょうし、ひと、人柄としてもです、人からの信用を受ける、いわゆる、人徳が受けていくことができますけれども、なら神徳を受けていくことはできません。
 
 本当の幸せにつながるというのは、その真をもって神へ向かうということなんです。それが、いわゆる、本当の信心というのです。だから、私が今日いうのは、どこまでも人へ向かってではなくてですね、神へ向かっての真なのです。そこに絶対その真が本当なものであるならば、必ず陰が伴う。おかげ(せき)、おかげが寄り添う、ね。けれども、それで(けんしゅ)しとってはならない。それは限りなく動いておるもんじゃな、なからなければならないし、ね、次の真を求めていくというか、次の真を神様の前に(ひできしていく)というのが信心だということを申しました。
 
 というてです、なら人に対することに対するところの真というのは、そこにこう、なら信心じゃないかというとです、信心させて頂く者は、何事にも信心になれよ仰せられます、ね。信心させて頂く者は何事にも信心なれよでありますから、もちろん、神様に向かう真がそのまま、こ、こちらを向いた時には、そのままが真であり、ね、で、人に当たり、真で仕事に当たりというようなおかげを受ける時にです、それはそのまま神様へ向かうた真ということに、まで消化されるというかね、高められる真になってくるのです。ここに信心のある者なかなきゃ、理解ができない、いやゆる、おかげのおかげが伴うてまいります、ね。だから、信心しておれば、なら人の方やら仕事の方やら真はもうせんでもいいかという意味じゃない。
 
 神様へまず真が向けられたら、その真が今度は人にも仕事にも向けられる。いわゆる、何事にも信心なれよというのは、それなんです。ね、そこからいよいよおかげが広大してまいります。大きくなってまいります。今日はそのことを聞いて頂きましたですね。どうぞ。